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払田柵跡
払田柵跡
公共交通機関利用の場合:大曲バスターミナルより『羽後交通』千屋方面行きの路線バスに乗車し、「埋蔵文化財センター前」下車徒歩すぐ
なお、土・日・祝日は路線バスの運行本数が少ないので、訪れる際は注意して下さい。
払田柵跡の詳細情報
- 代表取締役小笠原秀和
- 【払田柵跡の歴史】
払田柵跡は今から約1,200年前の9世紀初頭に、当時の政府がこの地方の統一を進めるために造った政治的・軍事的拠点、または儀式の場としての役割を持っていたと考えられています。
東北地方には払田柵跡の外にも古代城柵官衙遺跡が多く存在します。中でも、北東北に築かれた秋田城、志波城、徳丹城、胆沢城は、律令国家勢力の北限を構成し、互いに密接な関係にあったと考えられています。また、払田柵は歴史書や古文書になどに関連記事の記載が無く、歴史上の名称が未だ解明されておらず、まだ多くの謎を秘めた遺跡です。
【払田柵跡の構造について】
払田柵跡が建てられた場所は横手盆地の北部に位置し、硬質泥岩の丘陵である真山と長森を囲むように外郭が築かれ、内側には長森だけを囲むように内郭が築かれている。内外郭の東西南北にはそれぞれ掘立柱による門が築かれていた。
中央には板塀で囲われた平安時代の政庁と考えられる建築物の跡が残されており、政庁は4回建て直されていることがわかっている。
外郭は東西約1,370m、南北約780m、面積約87.8haの不整楕円形をしており、東北地方最大級の城柵遺跡である。自然の丘陵上をそのまま利用していること、三重の区画施設に囲まれていることも大きな特徴である。
払田柵跡は1974年より学術調査を実施しており、現時点までおおよそ次のことが判明しました。
政庁は中心施設であるが儀礼的な場であり、実務的な建物は政庁からやや離れた長森丘陵東側に置かれたと思われます。対する西側丘陵域は主に鉄・銅などの金属の生産や加工の場として利用され、工人集団の作業場兼居住域であったことが判明しつつあります。
外柵で囲まれた広大な低地は当初、耕地が広がり馬が放たれ、兵士・農民が居住する空間と推測していました。ところが実際には複数の川が流れ、河川敷・湿地が広がる所であり、居住には適さない場の多いことが明らかになってきました。しかしこの区域は水や火を用いて行う祭祀には好都合の場であり、近年祭祀関連の遺構・遺物が多く発見されました。
払田柵は軍事的、政治的な要素を兼ね備えた国の役所であるとともに、柵内では鉄の生産や鍛冶、さらには祭祀もとり行われていたと思われ全体像が徐々に明らかになってきています。